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最終更新 12月26日

第3章 歴史から見るお酒の社会学

| 0章 最初のお酒 | 1 章 基本ルール、コモンパス | 2 章 雑菌を追い出そう  | 3章 お酒の社会学 |

文化の中心にいたお酒

お酒というと日本人には清酒のことだね。 世界中には、色々な地酒がある。そして、美味しく作るのは結構むずかしいんだ。 ところが、この気難しいお酒作りも、基本原理さえ理解できれば、誰でもできるようになるんだよ。

でも、最初の頃に上手にお酒作りができた家は作り方を秘伝にして,しこたまお金と権力を手にいれてきた。酒作りは人間の文化の中心に位置してきた特別の意味があったんだ。

今でも、酒作りは国家が金を徴収しやすい商品として、許可制にしている国が多い。日本は、密造(みつぞう)という言葉を編み出して、主婦が台所でお酒作りをすることまでやっていけないことになっていいます。

旧陸軍帝国の日本が、密造と言う言葉を編み出して庶民の酒造りを取り締まったのは、戦時の軍事費調達の意味合いが大きかったのです。単純にいえば今の北朝鮮のキムジョンイル体制下での軍事費調達体制と同じと考えればいいとおもいます。現憲法では、台所で作る料理の類を取り締まってはいけないはずなのですが、酒の権限を手放したくない旧大蔵省官僚達は、いまだに国民に密造と言う言葉を押し付けています。

官僚が密造と言う言葉を再び使うようになれば、国家が軍事態勢に近づきつつあると考えればいいとおもわれます。同時にそれは、官僚が「国民は自分達に支配されるべき存在」と考えている証拠でもあるでしょう。

本当は最初に主婦が穀物の酒作りを編み出したんだよ。国家がお金を取るために権力で取り上げてきたんだね。

産業革命以前は、国家予算に対する比率では、酒製造業は今の自動車産業に匹敵する巨大産業でした。よいお酒はどんなにお金を出しても飲みたいところに眼をつけた昔の権力者が、一般人は作っちゃいけないというお触れを出して、一部の商人と自分達だけ利益を独占しようとしました。

それでも、一般の家の中で作るお酒まではなかなか取り締まれなかったんだ。そんなことをすると人気がなくなって他の権力者を応援するようになるからね。

それでも人を治めようとする人々にとって、お酒はお金の元として、とても特別で魅力的なものだったんだ。ほかの国と戦争するときには国民が協力的だったり、軍隊の勢いがこわくて文句が言えなかったりするために、酒作りの権利を全て国に取り上げられたりしてきました。

そのほかにもお酒には、権力を維持するのに都合のよい性質があります。

  • 良くできたお酒はお金を出しても、飲みたい飲料なんだ。税金がとれるぞ。
  • 酒が充分に飲めない低開発国の人たちを、ウイスキーのような強い酒を安く飲ませてアルコール中毒にさせ借金漬けにします。次に借金で土地を奪えば、超安上がりの土地取得ができます。これで民族が消えた例があります。
  • 酔うと、皆で楽しく過ごせる。その集団に一体感ができるんだね。
  • 適度な酔いは、警戒心や恐怖感を開放して、敵に突撃!なんて命令したときに素直に行動するようになる。
  • 適度な酔いは、警戒心や理性的な判断を麻痺(まひ)させるから、宗教的な教義(きょうぎ)を信用させたり、振舞い酒による神の恩恵などを民衆に実感させることができるんだ。
  • 適度な酔いは、美人をも誘惑できるし。

権力者として人の上にたちたい人々がこれを見逃す手はないよね。
何も文明がすすんだからおこったことではなくて、人間が石器を使うようになったころから、お酒は一般人を宗教にひきつける宗教的道具として利用されてきました。当時のお酒は、すでに木の実が発酵したものを集めたり、ハチミツをうすめた物が発酵した物であったようです。
よく土器がないと酒はできないという議論をする方がいますが、石のくぼみや、ひょうたんの利用などは早い時期にあったようです。

現代人にとってお酒は酔うための飲み物ですが、古代の人には、薬として利用されることも多かったのです。シャーマンは古代の宗教の中心人物であり、薬の知識にたけた医者であり、場合によっては権力のトップでもありました。 人とお酒は文明がはじまっていらい、常に権力者と一緒に歩んできたのです。

権力とお酒

権力をささえたお酒の収益

政治には、自分が誰か(神など)から選ばれた正統のお殿様だと、求心力を持たせるために、宗教が必要なんだ。王様の戴冠式(たいかんしき)に宗教の権威者が王冠をのせる儀式を主催するだろ?
日本でも、天皇が認めた殿様だったら幕府が開けたんだよ。宗教というのは、権力者にとって、正統性を与えることのできる重要な存在なんだ。

いっぽう宗教の権威者達も、他の宗教をおさえて巨大化すると多くの権力と収入が手に入るようになるんだ。
宗教とは人々を救う側面と、殿様の権力と連携して自分の権力を強化しようとする側面がある。
救う側面が出るときは、人民に対して食糧や、ビールなどがふるまわれます。特に新しい地域で布教しようとするときこの側面が強く現れます。

宗教が人のこころの支えになっていて、殿様が直接民衆を支配しているときは平和なんだ。 でも、殿様が自分で宗教のトップに立ったり、宗教のトップが民衆を直接支配しようとすると、法王と殿様との間で戦争が起こります。それは税金のとりあいでもあるんだよ。

トップが奢侈に走り始め、権力が一部の人間に世襲化され始めると、不満な人間が出てきます。この人たちは正義の旗印を掲げて、権力の追い落としを図ります。宗教改革やクーデターはこういう動機で起こるのです。不公正・不平等で、よこしまだというわけです。つまみ食いは許せない、そんな感情もあるでしょう。宗教改革も、人間の出世欲から離れてしまったわけではありませんが、公金が一部の世襲人間に流れることを絶つ効果はもちますから、どちらかといえば改革する側に大義はあります。

マルクスが共産主義を唱えて、レーニンがソ連を生み出したとき、彼らは人々の宗教の自由、言論の自由を奪い、多くの人を粛清し、自らは労働貴族と言われる特権階級になりました。共産主義の元とも言われた、イスラエル人のキブツ思想は、いまやパレスチナ人の餓死を狙う数少ない肥沃な土地横取り追い出し作戦を続け、その後頻発したテロ対策費用のほうがコストがかかることに気づいて撤退路線に変わるという状況。 言ってることは素晴らしくても、動機が不純だと自由主義であろうが、封建主義であろうが、共産主義であろうが、帝政であろうがやることは皆同じというわけです。

権力の世襲を試みようとする人々は何も、君主だけではありません。その下にいる官僚(貴族)もまたその恩恵をこうむっているから権力の世襲に熱心です。どんな時代でも、「俺が強いからお前らは俺の下でだまって年貢を納めろ」とは言いません。それなりに国家のためとか、平和のためなどと大義を考え出し、あるいは、他国を誹謗しナショナリズムを利用して、言葉で納得させようとするのが常です。しかし、そういうグループ出身者の中にも宗教的な倫理に根ざした行動をとろうとする人々もいます。世に言う名君とはそういう人々を言います。 こうした人々の言うことをそのまま受け止めているだけでは、社会学的な考察はできなくなります。

そういうときの観察視点はひとつ。発言している人がいっていることを実行すると誰が得をして、誰の味方をしているかの一点に観察を絞ると良いです。「Noと言える日本」などといっていていかにもみんなのヒーローを振舞っていても、君が代で起立させないのはすべての社会のルールがなくなると言い出したことで何を守ろうとしているかが見えてきます。発言とは別に、頭の中でもっている本音の行動基準が見えてきます。科学的に観察する手法は、ウソを言う人間についても、サルを観察するにもこの手法しかありません。こうした行動から、本人が国民を自分の仲間として所属するグループとして意識しているか、セレブをグループのアイデンティティとして意識して行動しているかが判断できます。

 

昔はお酒を造っている産業が、今の自動車産業にあたるような大きな税金の収入源だったから、国内で戦争が起こると、酒屋さんと運送屋さんはいつも巻き込まれていました。戦争用にお金を出せというようなことです。
お酒屋さんのほうも、お金をだすみかえりに、販売を独占する権利を国に保証してもらったり、いろいろな規制に対して優遇措置をもらえたから、相互にメリットがあったんだね。

日本では神社がお酒屋さんに麹を作って良いという許可を出していました。神社側があまりにえこひいきしたために、お酒屋さんたちが暴動を起こしたこともあります。

非常に単純な図式をゆるしていただくならば、武力と暴力を後ろに持ちながら恐怖により権力を示すのが政治で、人の心の弱さを利用した権力が宗教であるといえます。宗教には人間の生き様をどうすべきか規定してくれる良い面があります。ただ、その組織をつかって自分の売名行為をしたり、公金をふところに入れたり、猥雑な行為をしたりするわがままな人々もでてきます。その人たちが社会を壊してゆくのです。
もちろん、どちらの権力でも人びとの生活をおびやかしたり、心や身体や財産を傷つけたりすれば長続きはしません。中世ヨーロッパの魔女狩り、中国の紅衛兵運動、アメリカの戦争好きなどです。

そして、仲間を大事にする民衆もまた一つの権力です。始めの二つの権力者が行う情報統制に対して真実を伝えられるのは、仲間のネットワークです。宗教はこれまで仲間の権力を取り込むことに柔軟に、熱心に取り組んできました。
インターネット時代は、宗教の教義に対してなんかおかしいと異議を唱える人々のグループが明確化してきました。歴史のなかで新しいグループなのです。2ちゃんねるのひっきーと馬鹿にしてはいけません。彼らがすねないで前向きに行動しはじめれば、マスコミ以上の権力となりうるのです。

官が、NGOやNPOの集団を国家予算で取り込んできた行動は、仲間のパワーを既存権力内に取り込もうとする活動です。過去の宗教がこうした活動をしてきたこととよく一致します。

いま、官がいちばん困っているのが、匿名でありながらインターネット世界で意識や理念を同じくする新しい形態の仲間権力が制御できなくなっていることです。
これから立案されてゆくインターネット世界を規制をする法律は、この一点を目標に置かれた活動になります。

お酒とは、それらの権力の離散集合のなかでいつも人をつなぐ小道具としてそばにいつづけたのです。お酒は税金確保としての手段として密接に権力のそばにいました。そして権力者が下層の者達の気持ちをつなぐ手段としても活躍してきました。そして、仲間同士がきづなを深める手段でもありました。

テレビなどで、悪代官と悪徳商人が話すシーンに、お酒とお金と美人抜きでは表現しにくいでしょ?今でも一緒ですよ。

政治権力は、個人の野望や欲望、名誉欲などを求心力にしています。前向き、闘争的な側面を権力集中に利用した動きが政治権力です。前向きではありますが、相手を配慮できない闘争心は人格が未成熟な人の弱い側面であることは間違いありません。

弱さ、不安などを受けとめて求心力をもたせた権力が宗教といえるでしょう。

仲間の力は、個人の魅力、人望などが求心力を持つものですが、これとて従う人たちは誰かに判断を頼ろうとする弱さの裏返しです。いずれ政治権力に移行する性質のものです。そういう意味では暴力団も政治権力予備軍なのです。

権力層が、集会や結社を嫌うのは、それらの徒党を組む行動が自分達の既得権益を奪う可能性があるからです。権力層は死や拷問をともなう苛烈な排除を行います。

人は弱いから群れるのです。それはいけないことではありません。個人では大きな力は生み出せず何もできないのです。
群れることは一般に人として弱いことのように言われていますが、ヒトという動物の種としては、群れることでマンモスやライオンにも打ち勝ってきたのです。群れることは種族を守ることなのです。

しかし、ヒトは群れが大きくなるにつれて、統率上の問題を生じ、公金を扱う立場が生じ、最後にそれを自分の物にして世襲化しようとする不心得者が出る性質を持っています。

国家を大きくするには、権力者は、初期投資の資本をどこかから確保しなければなりません。このことから歴史の中で繰り返す貧困層の創出パターンが出てきます。

農業国であれば、権力者は農民に重税をかけながら資本を集め、それを資本家に渡して産業をおこします。国家が大きくなるのだから、正しい行動として認められます。

しかし一般に資本家が儲かり始めたらお世話になった農民に資本家がありがとうございましたなどとは言ったためしがありません。多くの国では、資本家は権力者の親族とか部下などがなることが多いのです。そこからでた利益は権力者とそのグループが独占するというのが歴史の教えです。

だから社会の状況を客観的に観察するには、生じてきている貧困層がどの層なのか誰が経済的に裕福になっているかで、誰が公金の流れを私腹化しているのかもわかります。

国家経済を立ち上げて富める国を目指している時は資本家と権力者がまず農民に重税をかけながら肥大化してゆきます。軍事力を増強する時代には軍人と軍需産業の資本家が他産業のサラリーマンに重税を課しながら肥大化してゆきます。その方針を決めている人物達が一番肥大化のメリットがあるように政策決定するのは人類の悪しき性質です。

1900年代に行われてきたのは当初農民から、次に一般サラリーマンから広く資本が徴収されました。今の中国と同じように国家経済が膨張してきたときであったので春闘システムも機能して、一般サラリーマンへの労働配分もそこそこあって、日本は良い国でした。

2000年代に行われてきたことは、バブルの清算をする時期でした。その負担者は預貯金で生活していた年金生活者、年金に参加している労働者、そしてリストラ騒ぎで正社員になれずに、派遣労働者になった新卒の大学生達でした。

現代のグローバリゼーションを標榜する国々の課題は、一部の人間に集中する過大な公金の流れをいかに負担者であった一般の貧困者へ還流させるかということです。公金の流れを私物化する資本主義は、民主主義ではなくセレブ主義とでもいう新たな時代に入っています。

働かない人物に多くの金が流れ、働いてきた人が餓死する世界はおかしいとという感性が行き渡る必要があります。

ベッカムに200億円支払うアメリカは異常です。そして数千億円を個人資産として持つことのできるアメリカのシステムも異常なのです。指示するだけの個人が数千億円も価値を生み出せるはずがありません。すでにアメリカの状態は民主主義でも資本主義でもありません。民主主義を逸脱しています。利益は誰が生み出した価値なのかをよく算定しなおす作業が必要です。

(参考) マジョリティはプアになるという歴史の事実があります。

古代エジプトでもファラオの取り巻きの神官や書記達が税を取る立場で公金を私財化させつつ権力を広げてゆきました。日本でも当初は神道の宮司と組んだ物部氏が軍事力を持ち政治を左右していたわけだし、その後も次々と豪族の力に加えた官僚の立場で政権を左右してゆきました。平安の摂関政治は、天皇の取り巻きの藤原家が太政大臣という官僚の立場を利用して国の運営を取り上げてしまいました。最初に闘争に打ち勝ったものが王となり、平和な文明確立と共に官僚が公金の取り扱いを利用して権力を持つようになるのが人類の歴史です。そうして世の中に希望がなくなり世襲による閉塞感が満ちる頃に暴力により官僚の既得権力が排除され次の王が現れます。

歴史から抽出される共通の部分というのは公金を扱う立場を利用して既得権力と人脈をふやすやり方です。金流とでも申しましょうか。お金の流れに身を置くことが権力獲得には重要なことなのです。現代では企画部門など予算配分や人事決定の権限をもつ人たちが金流に身をおいて生きています。天下り先を勝手に作るのも5000年前のファラオの時代と何ら変わりはありません。

人類の性質として、政策決定する人々が自ら自分達の不利になる法律を制定しませんから、官僚が公金を横領する部分を犯罪として扱うことはしません。平和を長期化させるには官僚の犯罪を厳しく処罰する制度が必要なのですが現代においても官僚が自ら行う権限肥大化と公金横領を排除できている国はありません。低開発国ほどこの傾向はひどいのです。日本もまだこの面では中開発国なのでしょう。

お酒の許認可権というのは文明が始まった頃からすぐに生じてきています。文明の初期には、お酒はもっともお金を集めることのできる商品だったからです。

歴史の中で、人の物を奪うならず者集団は夜盗と言われていますが、これらの徒党も村を守る働きをすれば、政治権力化してゆくのです。中国の漢の始祖ももとはといえば暴走族みたいなものです。「漢」とはやくざな男達が使う「おとこ」という意味ですよね。

日本の暴力団は、金儲けの矛先が民衆に向いていますから、将来政治権力化できる資質は持っていません。表の権力と裏の工作でタイアップしているために生きのびているわけです。

そして、民衆に重税を課しながら自分達は奢侈をきわめる権力者も歴史の中でまた倒れていく運命にあります。奢侈と権力を世襲した子孫は悲惨な末路をたどるのが普通です。日本の官が、各所に理事の場を作り国民の金を流用している姿や、世襲化をもくろんで私学と東大をセットとした登竜門を形成しているような、子供の教育の場を自分達に有利にしようとしている姿は、歴史的には彼らの子孫にとって危険な行為なのです。

優秀な民間人を採用しようとした中国の科挙の制度が、当時の官僚によって世襲化して捻じ曲げられた経緯とよくにています。つい先ごろ、紅衛兵が中国の既得権益層にたいして無残な弾圧をおこなった事例は現代でもまだこの原理が生きていることを教えてくれます。

こうした、人の弱さが、人々を集わせ仲間であることを確認するときにお酒はとてもよい手段なのです。軍の装備に必要な資金準備にもお酒への課税は最も簡単な方法でした。歴史はお酒と共にあったわけです。
日常の生活でも緊張を解いて安心し楽しみたい時間にはお酒が必要であったし、これからもそうなのでしょうね。

陽気さをもたらしてきたお酒

お酒とシャーマニズム、お酒と宗教は密接な関係を持ちながら文化を育んできました。自らの属する宗教で考えると、平静な思考ができにくいので、海外の人々が信ずる宗教で以下の論考を考えていただきたいと思います。

宗教は人間にとってなくてはならないものです。特に来世はその中核となる大事な考え方です。来世の存在を説かない宗教はありません。

こうした来世があるという考え方は、死を意識した私達人間にとっては、希望をもって残りの人生を生きてゆけるとてもありがたい思想です。ここで宗教家は二つにわかれます。ある人々は、人々を救うために希望ある人生を説きます。残りの人々は、来世の地獄を強調し、金銭の喜捨と奉仕(労役)が善行となり、その積み重ねが地獄から逃れる方法だと説きます。

宗教には一般にその宗教がすたれないようにする2種類の仕掛けを必ず持っています。

一つは「来世の不安をあおり、宗教から離れさせないようにする仕掛け」や「悪行をすると天罰が下るぞと教える仕掛け」を準備するのが普通です。どの宗教も、必ず悪いことをした人たちには地獄がまっているとか、最後の審判(しんぱん)で来世は生きられなくなって消えてしまうとか言う教えになっているのがふつうです。
それを補強するために、常にあなた達は生まれながらにして罪を背負っているとか、神の奴隷だとか、あなたのやったことは全て神はおみとおしだとかが強調され、連続した教育が施されます。

もう一つの仕掛けは、皆で祭りを行い酒を飲み陽気に一体感を持たせて求心力を持たせる前向きな仕掛けです。
お酒と祭りを利用する前向きな仕掛けを重視した宗教を持つ国々は一般に陽気な雰囲気があります。羽目を外すことを受け入れてしまうおおらかさがあります。リオのカーニバルは、キリストの復活を祝う祭りです。ヨーロッパの人々の中にはそれを土着的と言う人々がいますが、私はそうは思いません。堅実な人からみると、年収の何割かをお祭りのドンちゃん騒ぎに使うおろかな行為に見えるようですが、そのぶん人と人が垣根の少ない関係を築いています。そして人と人が仲良くなることを重視した人情が表面に出る国になるようです。

日本を最初に統一したといわれる天皇家は神社の礼式のなかに直会(なおらい)という儀式を持っています。なんのことはない、酒や肴など皆で神様のために持ち寄った物で飲み会をしようということです。だから日本の雰囲気は欧米に比べて、人情的な雰囲気が強いようです。

最近は「日本では人情的な雰囲気が強かった」と過去形で話さなければならないほど、利己的な集団が増殖してしまっていますが・・・。

祭りによる一体感より最後の審判を重視した教えを採用した国々では、厳格で哲学的な雰囲気になっているようです。理知的で、挑発に乗らないことを大事にするような、大人であることが重視されている雰囲気になっています。個人が正しい振る舞いをすることを重視した国になるようです。集団協調よりも、正しい個人が集まればよい国になると考える文化です。

こうした知識を持つことは、古代文明のあり方を推測するときにも有効です。
古代エジプトでは、約3000年間も、死後の再生を信じてミイラ作りをしてきました。当初は多神教であったエジプトも統一されるにつれて神が統一されてきました。それに伴い、その棺の中には日本では閻魔様にあたるオシリス神の最後の審判を何とかくぐりぬけるための呪文(神官しか知らない言い訳マニュアル)が入れられるようになりました。よほど死後に再生をさせてもらえなくなることが怖かったのでしょうね。神官のほうも統一神のほうが身分保障され、権力が強まるし、呪文を書くことでお金もしこたま入ったことでしょう。
それでも古代エジプトで権力をもちお金持ちとなった人々は、若い頃は死んだあとなんてあまり考えないから汚職や不正を働いたようです。だから呪文をいっぱい書いてある死者の書というものを持って死者の国に旅立ったのです。
古代エジプトの雰囲気はどちらかというと、映画で見るような裸の原住民が酒を飲んで神様の前で踊りまくるというより、現在の欧米のように最後の審判をおそれて、きちんとした個人であることを重視した雰囲気ではなかったかと推測しています。

日本の中でも、「酒は飲んでものまれるな」ということをことのほか大事にする地方があります。戦国の駆け引きの中で重臣として生きてきた家々は厳格さがもとめられた雰囲気をもっています。大将はお酒を勧めて一体化を求めるのですが、部下はそうはいきません。うっかり本音を言えば腹を切らなければいけないような世の中です。それにどっちの大将につくかは将来の家族を守ることでもありました。
そのような地方では家族や地域社会でも上下関係にとくにきびしい雰囲気があります。言葉のイメージで言えば軍隊的、官僚的とでも言いましょうか。

不思議なことに、権力が固定し、平和が続いた国は、お酒で馬鹿騒ぎをするよりも、軍隊的、官僚的な雰囲気のほうに変わっていく傾向があります。戦国時代のように実際を変えてゆかなければ首が飛ぶ時代には、道理が通用します。
戦争の準備などは、根性論では通用しません。敵国の状況を正確に調査し、合理的な準備をしていないと本当に首がなくなってしまうからです。

根性を重視する人たちは、本当は何も知らないで済んでいる平和な人たちなのです。腹がくくれない人物でも、礼儀作法とおべんちゃらがあれば通用する時代には、上下関係をつよく意識した生活の構造になってゆくようです。

戦国の国捕りから離れた地方で、人の協力で生きてきた人たちは、お酒の飲み方も羽目を外すことで受け入れてくれる雰囲気があります。お酒で馬鹿騒ぎができる国では、国民は幸せであろうと思います。皆が平等であるという人間的な一線が守られ、うけいれられているように思うからです。 そういう意味で、最初に天皇家の直会の礼式を国家の生活ルールとして受け入れた日本はしあわせな国家ではなかったのでしょうか。もっとも天皇家の前に日本の土着の飲酒ルールがあって、天皇家の統治方式を選択する時期に、それを取り入れたトップの聡明さによると思われますが。

世の中が平和になり、上下関係が固定化して世襲化するようになると権力を求めて家族内でも裏切りや、殺戮、暗殺などが出てくるようになります。ヨーロッパにはたくさんのこのような話が残っていますね。 日本でも大名では家族内の権力をめぐる殺戮は生じています。

世の中の平和と繁栄を維持するためには、やはり能力のある者や野心を持つ者達の活躍できる場を用意しておくことが必要なのです。トップに立つものが世襲を始めたことは、その権力組織の求心力が崩れ始めた萌芽を示しています。次のトップを指定する権限で自分の影響力を維持しようとする行為は、本人のわがままだけであって、世襲化の悪弊をより助長しているに過ぎません。 環境は人間の営みの速度とは無関係に進みます。だから気候変動や他国の技術進展などへの変化追随ができなくなった組織は、権力を持つ側から見れば意図に反して謀反人を養成してしまうことになります。野心を持つ者に変化追随への活躍の場を与え、それを社会的に表彰して、何も貢献していない上司や同僚達が成果を奪うようなことを防止すれば、健全な平和が継続できます。 ヨーロッパの人々がNatureへの発表とかノーベル賞のような登竜門となる制度を重視し、多く持つのは、最後の審判の文化を背景としながら人情より自立を重視する文化を背負いながら、自らのあふれる野心と折り合いをつける上で、社会的安全弁を仕組みとして装備しておく必要があったから出てきた知恵のようなものと思います。

だからその運営も結果にフェアであることが特徴です。

日本の登竜門の多くは官製で世界に通用するものが少ないですね。みんなが一緒で平等である事を前提とした、協調を重視する基準で生活する日本のような場合は一人の頭がぬけだすと男達の嫉妬でかえって社会が揺らいでしまいます。登竜門など作らないほうが平和なのです。そしてあいつだけがやったのではなくみんながどこかで協力したからできたのだという納得し方をするのです。
日本の登竜門は権力のトップが自分の影響力を維持するために運用していることが多いために世界の登竜門として機能できないのでしょう。それは選抜過程が不公平である裏返しでもあります。

国境が地続きの国だったら日本のようなメンタリティは存続できなかったでしょう。日本の制度の特殊性は、同じ登竜門という言葉を使っていても本質では異質であることを自覚しておくことは必要です。日本では、世界に名だたる研究成果をあげるより小さい組織内の上下関係に名だたる評価を得ることのほうが重視されるのです。

ところで、厳格な雰囲気の中で、逃避的にお酒を飲んでアルコール依存症になる人々がいます。いっぽうで楽しくみんなで飲んで、仲間との一体感を味わえる人々もいます。居酒屋やカラオケは、騒ぐことを許容してくれる空間です。
お酒がもたらしてくれる文化は、長い歴史の中で、権力を握る者達と国民の楽しみたい願望の駆け引きの中で決まってきたのです。

お酒の飲み方の文化は、その地方の支配の歴史をそのままあらわすのです。

同時に、死に対する民衆の心構えが、人が平等か、上下かを決めるキィになっていて、酒の楽しみ方も変えてきました。

自然への素直な畏敬から来る多神教では、死に際してもどこかに救いの神がいてくれますから、自分を肯定的に受け入れ、他者に必要以上の厳格さを求めません。みんなで車座になってわいわいやることで絆が確かめられるのです。お互い仲良しで、地域の土木工事などは機能的に対処できても、他国の侵略には機能的に対処するのは苦手です。

最後の審判を重視する一神教では一発勝負、絶対絶命の状態で死を迎えます。民衆は自分がやっていけないことは他者も許せないのです。
中世の田舎で夜に酒をわいわいのんで楽しむと、その中の女は魔女として惨殺されました。唯一神が求めるなら、他者を殺すことも正当になってしまいます。その分戦争や軍隊型の組織化が自然に受け入れられます。
神官はこうしたことを利用して自らを神格化したがります。神格化を求める気持ちは、権力者が世襲化を求める気持ちと同根から出てきています。

猜疑心のつよい権力者は、お酒の場で騒ぐ雰囲気を好みません。この場合は、死に向かい合う文化よりも、個人のゆがんだ性格から来る影響が強く出ています。
本質的に皆が平等であるという考え方が文化の根底にあってこそ安心してお酒をのんでさわげるのです。その平等の考え方は、猜疑心の強い権力者には嫌なこととしてしか映らないのです。自分より下層の人間は、心の中から自分に従わなければ安心できないのです。普通に言えば隷属です。奴隷制は昔だけではなく、今の会社や学校にも生きています。

日本は自由主義の国家であるというお題目がいくらあっても、小さい集団ではいまだ奴隷制をしいているところもあります。
学校で、パシリや窃盗、暴行、全裸で女子学生の前で踊れなどいじめている例、体育会系の監督が負けた腹いせに疲れた選手に過酷な練習を強いるなどは、完全な奴隷制です。
現代の奴隷制は、鎖や刀で支配するのではなく、経済的に依存している集団から排除するという脅しで行われます。逃げ出したらホームレスか将来の放棄かなのです。 本質は何も変わりません。

他人への意識の違いが酒の飲み方を変える

組織には一般にその組織を維持しようとするための3種類の仕掛けを必ず持っています。

一つは、組織の金をつまみぐいするとか、暴力沙汰を起こすなど秩序破壊行為をしたときに、組織から排除するという、恐れによるしばりです。
しかし暴力団と違い、そのルールは会社組織では通常は規定集など文書として公開されています。ただ本当に従業員の怒りに触れるような微妙な問題に対しては、人事部門と経営者だけしか知らない内規になっていたりするのが普通です。
岐阜県で、会社の不正を正そうとした人が、飼い殺し数十年の生活を強いられたりしていますから現在でもこの恐怖による統制は、有効な仕掛けです。
経営者の不正は暴かれることも、正されることも少なくなるように組織は作られています。高級官僚が、公共事業失敗でやめたことはないでしょ?

もう一つの仕掛けは、従業員向けの出世という仕組みです。会社の人事部門が入社勧誘につかう言葉は「頑張れば、社長にだってなれるぞ」というものですね。
人事部門の人間は本気で言っているとは思えません。頭の中では、「お前がヨイショできて、たまたま将来偉くなれる上司にめぐりあえて、事業に波風のない部門にいることができて、・・・・・」といろいろ条件を思い描いているにちがいありません。社長が10年居座れば、10年間の入社従業員は一人も社長になれないだろ?
なぜ人事部門が絵に描いたモチをえさにするかというと、この一言で従業員が自分は会社側の人間だと錯覚してくれるからです。自分は会社に認められた人間だと錯覚している人間は、社会に対して公開できない会社の秘密を守ってくれます。馬の前の人参で演出された「身内意識」の醸成ですな。

最後の仕掛けは、だいぶすたれかけているけれど、慰安会などの従業員と一体感を味わう祭りの場です。場合によっては全社球技大会などと名前がついておりますな。ここでは、お酒は欠かせません。
全員が参加する慰安会などの行事がすたれている現状は、組織のトップが小者になってきたということです。私はこのやり方が原始的であっても、いちばん平和で人を大事にする考え方から発していると思う。祭りには金がかかるし、大名に向かない小者には一体感の醸成など発想できないからね。

酒の場は人々のエネルギーを生み出す場でもありました。ヒトラーが結党宣言をしたのも、坂本竜馬が政治を動かしたのも、元はといえば酒場で天下国家を論じてきた結果なのです。権力者にとって酒の場は本音が出やすい危険な場でもあるのです。

お酒を楽しむおおらかな気風の土地柄でも、お互いを大事にする風習がなくなってくれば、だらしなく国家や集団の金を流用したり盗用する人々が増えてきます。お互い目配せでナアナアになりやすいのです。
厳格な社会でも、上にたつ人々が「自分がルールだ」という考え方をとり始めたときに、堂々と国家や集団の金を権力で収奪する人々が出てきます。

だから、公金のつまみ食いは、風土によるものより、自分だけよければよいという他人の利益を尊重する気風が薄れたときにおこります。決して酒が悪いのではなく、自由とか自己実現という言葉を自分の利益の理論武装にのみつかっている集団がふえたときにおこるのです。

その人たちの特徴は、簡単に見分けられます。
細い道で対面交通してすれ違うとき、強引に道を通ったり、絶対に真中をとおって道を譲らない人たちです。わがまま、自己中心、他人に攻撃的です。

日本の商家には「もうけさせていただく」とか「一人勝ちはいけない」という気風があって、飢饉の時には自分の金で米を調達して消費者をまもったりしてきたところもあります。
アメリカナイズされた人には、なぜそういうことをするのかわからない人間が日本でも増えてきているのではないでしょうか。他の集団とトラブルにならないように、収益の一部を割くという考え方は負け犬ではありません。
融和的に行動して、周囲の人々から信用を得ている集団が、いちばん費用対効果が効率的であることを知っている、大人の集団なのです。

アメリカはこれから、パレスチナ、イラク、シリア、アフガニスタンなど中東の人々の信用を得てゆくために、戦争した費用の上に、好感を持ってもらうための費用を上積みしなければなりません。イスラム社会の信用を失ってしまったから、全てのイスラム教徒に対し、好感を持ってもらうための費用を今後出しつづけなければならないのです。
もとはといえば、中東の石油利権をアメリカのものだけにしておきたいという狭い了見と、アメリカ製戦争道具のショーのために他人の土地と人命を蹂躙してきました。彼らの考える最初の合理的という範囲がとても小さかったのです。

会社という同じ組織のなかで全員で楽しめるお酒があれば、その会社はきっと生き生きと自分を生かしながら活躍できる会社でしょう。
一方で、他の社員に聞かれないようにこそこそ人のいない飲み屋で飲む酒があればその会社はもう大企業病におかされた組織です。若者だけでなく、人事関係者まで全員参加の慰安会を嫌がっているようでは致命的です。なすべき実体の対策より軍隊的、官僚的な上下関係ばかりが、優先される組織になっているはずです。組織はジリ貧だけど、誰もそれが言い出せない会社なのです。

こういう会社では権力をもったものが一切の責任をとらなくて良いように、情報の統制が行われます。会社ぐるみでウソをつくということですね。
深く中に入らなくても、そこの組織のお酒の飲み方一つで、その会社がどれくらい大企業病に犯されているかわかります。酒ののみかたは文化そのものなのです。

酒の場で人を馬鹿にしたらどうなるか知ってますよね。隣人を尊敬する気風のない人々のいる集団での酒は気まずい酒です。隣人を大事にする人達の酒はきっと楽しい酒になります。平和とはそういうところからしか生み出されないのです。

戦後の日本の会社には、年に一回だけ慰安会という行事があったものです。会社がお金を出して、みんなで一緒にどこかに出かけて大騒ぎをするという仕掛けでした。経営者には、従業員に対するねぎらいの気持ちが強くありました。その場でいろいろの人を知り合い仲良しになったりしていました。「今日は無礼講(ぶれいこう)じゃー」とトップが言っていたものです。現場のおばさんたちも出し物の衣装の準備やら、けいこで忙しかったものです。
無礼講とは、立場を離れて仲良くやろうということです。

高度成長が進み、世の中ががさつになってくると、慰安会で騒ぐと嫌う上司群が出てきました。無礼講のほんとうの意味を知らない上司群です。サルのマウンティングよろしく、やることといったら、女子社員に向かって権力をかさにきたセクハラをしたり、ふだん思っていることを「だいたいお前はこんなところがいかん」とのたまうおじさん達まで出てきました。
当然若者達はちっとも面白くありませんし、上下関係ばかり意識させられる嫌な行事になってしまいました。
上司になってはいけない無能な上司群です。こうして、お酒で会社の一体感を持たせる手段すら失ってしまっているのが日本の会社の現状ではないでしょうか。

若者のほうも、「くだらねーおっさん達」と尊敬を忘れた行動をとります。心の位置は同じなのです。どっちも相手を大事にしていません。その点では「めくそ、はなくそを笑う」のたぐいです。

上司達の行動を見ていると、ブランド物の衣服や小物を身につけ、しゃれたレストランにお気に入りの女性社員だけ連れてゆくといった、下心みえみえの行動です。本屋には尊敬される上司像とか、人に馬鹿にされない方法とかいった名前の書物が満載です。メールマガジンのトップ10には女にもてるテクニックとかひとに尊敬される立ち居振舞いとか、モテる心理学といった類の項目が並びます。

社会のために自分は何をすべきだろうかとかいった、古代から明治時代までの男達が持ちつづけてきた自らがもつべき社会的責任という考えがどこにもなく、消えてしまっています。志ということです。
ピアノをバーで一曲ひけるのが大事でそれ以上の技術上達を望んでいるわけでもなし、ワインの知識の勉強にはおこたりなしだがそれ以上の行動にはつながらない。人にどう見られるかだけの行動になってしまいました。他人への意識のしかたがちがいます。仲良くやってゆこうという対象の他人ではないのです。

今の日本人はわがままで自分勝手な行動を主張する民族に代わったかのような行動をとっています。

  • お店の看板は町並みに合うかどうかより、ただ目立てばよい。自分の家はかっこよい目立つ物にしたいが、回りの景色は、緑が多く落ち着いた風景であって欲しい。海外旅行に行くときは、家並みのそろった調和の取れた場所に行きたい。
  • 他所の家の前を掃除する人はいやみな自己満足したがる馬鹿だ。でも自分は家の前の道は掃除したくない。税金で町が掃除すればいい。
  • 高速道路で渋滞しているときは、側道を飛ばしてでも途中からはいりこみたい。一台ずつ交互に入るなんて奴は、入り込みのテクニックがへたくそなのさ。なんで一台またなくちゃいけないの。
  • 飲料の缶捨て場がないから置いていっちゃえ。
  • 電車の中で自分の本を読むスペースをあけるために他人によりかかるおじさん。威嚇してやたら身体を振り回すおじさんやおばさん。
  • 駐車場で空いた場所を見ると、逆走してしまう人たち。
  • 並んで町を歩いていて、対向者に道を譲らない若い女性達。
  • プライベートな飲み食いのお金を製薬会社に払わせるお医者さん。
  • 国民から集めたお金で自分達の天下り先を作らせ、数億円もうけようとする高級官僚たち。

お酒の文化を知ると、色々な人間の行動もまた見えてきます。「権力抗争の動物」としてしか行動しない人間と、仲間との交流を大事にする人間達が、色々な酒の飲み方をしてゆくのです。

「一億総白痴化」といった作家がいます。そのような言い方なら、酒の文化の視点から見ると今はきっと「一億総ジコチュー化」なのでしょうね。

お酒を造る権利はお母さん達のもの

民衆には、商品としてのお酒を買う権利があります。同様に自分の手で自分の台所をまかなう酒づくりしていいはずなのです。酒作りし始めた人々が販売を始めれば、国家収入にひびくから、多少の規制は仕方が無いとしても、個人で醸造する人々を刑罰にかけるというのはかなりの圧政といえるでしょう。

本来、いろいろの人々が技術に参加するから、国家の力が向上するのであって、少数の人々が免許制に守られているときに、維持には熱心でも工夫などが増えるとは思えません。
すでに獲得した利権を守るには、新しい試みは足元をくずすものとして嫌われるのです。せいぜい、根拠のない商品のイメージ戦略と、分かりやすい容器戦争くらいが技術の範囲となるだけなのです。
むしろ、お酒をつくる制限ほどには容器の工夫への国家からの規制がないから、容器の技術が発達していると思われます。

元禄バブルが崩壊し、奢侈(しゃし)だけがのこって幕藩体制が崩れかけたときに徳川吉宗は新しいことをやっちゃだめという新規ご法度なる規制を打ち出しました。

享保六丑年七月の覺(抜粋)
一、惣テ新規之儀、器物織物之類一切仕出候事可爲無用候、
一、書物草紙之類是又新規ニ仕立候儀無用、但不叶事候ハゝ、奉行所エ相伺候上可申付候、尤當分之儀早速一枚繪等に令板行、商賣可爲無用候

お菓子とか羽織など民間の奢侈を戒めたというのが定説ですが、この内容を見る限り、新規技術で地方大名が力をつけないようにすること、新しい出版物をださせないようにして幕府批判を防ごうという意図が読み取れます。権力転覆が懸念されるほど、幕府の経済的基盤が傾きかけていたんでしょうね。
新規メディア、産業界を一定の人間だけに決めておいてお上の統制がきくようにしておきたかったようです。
(おまけ)弱くなった権力がつくりたがる法規制

現在も酒製造と販売の許認可はすぐにはとても売れない販売量の規制で一般の人が参入しにくくしてあります。インターネットはこれから規制するために、「残虐な少年が増えるのはインターネットのせい」だって大新聞を使ってキャンペーン中ですね。今も江戸時代と同じです。

昔から権力を強化・継続したい人々は、何でも許認可の対象にしたがることがわかりますね。彼らにとって民衆は畏れ(おそれ)敬わせておくのが一番なのです。

あたらしい種類のお酒を生み出すには、もっと自由につくってよい環境が必要です。お母さん達を馬鹿にしてはいけません。もともと最初にお酒を創造したのはお母さん達なのだから。

歴史のはじめのころ、上手にお酒を作る家族と、王様たちが結託して、他の人を排除して自分達の収入を増やそうとしたところから、お酒作りの規制ははじまったんだよ。
その収入を、国民の公共事業のために使う間は規制も役に立つのだけど、つまみ食いをして自分達のぜいたくのために使うようになったときは、規制する大義(たいぎ)を失っているんだ。他人が入らないように排除した天下り先を作るために、公金をつまみ食いする高級官僚たちにはもう大義はなくなっています。彼らがいかに「良いことをしています」とアピールしても、悪いことのほうが見過ごせなくなっているから、「それをやるのはあんたでなくてもつまみぐいしない他の人がいるし。」というほかはありません。

規制があるからできないだけで、酒は個人でわりと簡単に作ることができます。

しかし、原理的な基礎知識を知らないまま、醸造方法を手探りで行うとえらくむずかしい。普通には腐らせることになります。 将来的に家庭の酒作りの規制を緩めなければいけなくなるでしょう。そこでまず、誰も語ったことのない醸造学の基礎知識を伝授する気分になってしまいました。私達にはお母さん達の秘法を後世に伝える役目があるはずです。

日本はまだ、お酒を作るという主婦の行う料理の権限を侵す、個人の基本的権利を権力で押しつぶしているような国家であることも伝えてゆかなければいけないとおもっています。

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