飯沼国民小学校一年生3学期~二年生2学期終戦までの悲しい想い出
 1944年(昭和19年)4月、桜咲く飯沼国民小学校一部校舎へ入学し楽しい毎日を送っていました。
3学期頃から太平洋戦争も激化し、国民令に依って「戦争に勝つまでは何も欲しがらず。
16歳以上の国民は軍事物資増産のため勤労奉仕」をする毎日であった。
2年生になると、マリアナ諸島は、B29爆撃機の基地として日本本土攻撃が盛んになった。空襲警報発令と同時に集団下校する日が徐々に増し、満足な勉強も出来ない毎日でした。
  小学2年生の7月21日深夜の銚子大空襲で飯沼国民小学校、多くの同級生の家が燃えてしまいました。家もなく身寄りを尋ねて疎開する者、集団疎開する者、同級生はバラバラになってしまいました。
                                   
 8月15日の蒸し暑い疎開先の庭先で聴いた「玉音放送」で全てが終わった。

この様な時代であったため、飯沼国民小学校入学記念写真:1年生の修業修業記念写真:等の記念写真は一枚もございません。

★2007年06月06日:小学校時代の想い出になるものを探しに「東京都江東区の教科書博物館」へ行き、国民小学校1年生の「ヨミカタ/こくご」の本を探し有料コピーをしてきました。当時を懐かしみ楽しんで下さい。

スライド映像は、小学1年生の「カキカタ(現在の こくご)」です。東京都江東区の教科書博物館から入手致しました。

 左右の< >を左クリックし、お楽しみ下さい。