二度と許すまじ戦争を子供たちに伝えて行きましょう 。

太平洋戦争の悲劇を二度と繰り返さないで下さい。
悲惨な戦争体験を子供たちに伝えましょう。

 1944年11月から始まった悲惨な本土攻撃は、一般市民を巻き込んだ都市への無差別爆撃に移り変わった。焼夷弾による人間殺傷:焦土化:戦意喪失を狙った市民攻撃であった。爆弾投下から焼夷弾投下に変えた作戦は、木造家屋を主とした日本の都市構造が火に弱いと判断した作戦である。以後、全国の大都市や地方都市へと広がって行き、更に悲惨な地獄絵が各地で描かれてゆきました。

 マリアナ諸島を「B29の基地」として、」本土攻撃が開始された。今から63年前を顧みましょう。太平洋戦争は、米軍によるマリアナ諸島の占領に依ってサイパン島・グアム島・テニアン島を「B29大型爆撃機」の攻撃拠点として日本本土への無差別攻撃が一段と激しさを増しました。

1944年11月24日から戦争遂行能力を破壊する目的で「軍需工場:軍需設備」を対象に、北九州を始め国内各地をB29に依る爆撃破壊攻撃が始まった。B29爆撃機は(ボーイング社が開発した10,000m上空を巡航可能)日本の戦闘機や高射砲では、高度が高すぎ攻撃出来なかった)。
焼夷弾には、油脂焼夷弾:黄燐焼夷弾:エレクトロン焼夷弾があり、点火がが簡単で在り長時間燃え続けた。想像を超える高温を発する特徴がある。また、大型焼夷弾は、空中で分解させる親爆弾により、数十本の焼夷弾を点火させ、雨あられの如く投下する事が出来た。
地上に落下した焼夷弾に水を掛ければ火の勢が増すように開発されていた。従って、バケツリレー や 消火ハタキを使っての消火訓練などは何の役にも立たなかった。

銚子大空襲(銚子市内に於ける戦争の悲劇)
銚子中心街を三回に渡って集中攻撃(3/29日:7/19日~20日:7/21日)された。

  銚子駅より西側は3/29日 東側は、7/19~20に焼失

 私達が、飯沼国民学校1年生(3学期)の時から2年生(1学期)に掛けて更に激しくなり、空襲警報のサイレンに脅えて満足な勉強さえ出来ない日々が続いていました。
銚子大空襲は、昭和20年3月9日深夜~(銚子駅前方面) 並びに 7月19日深夜~(観音様方面)の2度に渡り大量の焼夷弾が投下され、銚子の街は、あっ言う間に炎に包まれ、見渡す限り焼け野原となりました。 
 7月19日の深夜から20日早朝の空襲で、飯沼国民学校(一部校舎:二部校舎共に)は焼失致しました。
この戦争で多くの市民が犠牲になった。(飯沼国民学校では、教師:生徒を含め数名が若くして犠牲になった)。この年(昭和20年)だけで、銚子市内の警戒警報発令376回/空襲警報発令89回もあった事が記録されています。
また、銚子上空は、東京大空襲のためのB29爆撃機が往復するルート上にあり、テニアン島、サイパン島へ帰還する途中の爆撃であったと伝えられています。

東京大空襲
 1945年3月9日:深夜~10日早朝に掛けてB29・延べ約298機余りで、東京大空襲に遭いました。

焼夷弾投下にて深川下町周辺に火の壁を作り、住民の逃げ道を断ち、逃げまどう人々の頭上に、焼夷弾を雨あられの如く投下した。隅田川に掛かる橋;下町の水路には、橋から水を求めて飛び込む者。いつ日か、川面は死体で覆われ水さえ見えなくなっていた。
わずか2時間30分の空襲で、爆弾:焼夷弾の総重量は 約2,000トン:死者 83,000人:負傷者約 100,000人:家屋を失った者 100万人以上の一般市民が犠牲になった東京大空襲は他にない。


大阪市大空襲
 1945年3月13~14日(大阪市)は、一般市民を巻き込んだ焼夷弾爆撃で火の海と変わった。多くの市民が焼け出され、熱さから水を求めて川に飛び込んだ市民の死体で山となっていた。

神戸市大空襲
 1945年3月17日:深夜から18日早朝に掛けてB29・延べ約309機余りで、神戸市が焼夷弾攻撃に遭いました。

1945年4月1日:米軍は、沖縄本島へ艦砲射撃の後に上陸し戦況は深刻化した。
食糧不足に依る餓死。空爆の恐れから1945年3月、本土決戦に備え、国民義勇軍を編成。「男子15歳~61歳。女子は17歳~41歳未満の国民」全てを義勇軍として軍の統制下に置き、本土決戦態勢を整備した。 態勢を整えるための時間稼ぎから沖縄を捨て石とした。戦艦大和など残り少ない連合艦隊は、片道燃料だけの海上特攻隊(人間魚雷)を出撃させ、台湾基地からは、神風特攻機が出撃した。特攻出撃機は3,000機を超えたと記録されている 4月25日、沖縄戦の終結を発表。90,000人が戦死。8,000人が捕虜となった。非戦闘員であった島民100,000人が犠牲となった(詳細は、実際に沖縄を訪問し、惨劇の実態を直接確認することをお薦め致します)。

横浜市大空襲
 1944年11月~始まったB25に依る軍需産業地の爆弾攻撃。1945年4月15~16日の焼夷弾爆撃に続いて、3度目の横浜大空襲が1945年5月29日:深夜~30日早朝に掛けて焼夷弾に依る大空襲に遭いました。 多くの市民が焼け出され、熱さから水を求めて川に飛び込んだ市民で川面が見えなくなっていた。また、横浜では、燃え上がる炎で「酸素が不足し、酸欠状態で亡くなった市民が非常に多かった戦後60年の2005年9月、何処の誰だか判らないまま、此処に埋葬した記憶があるとの情報から発掘し、25体の霊を「戦没者のお墓」に埋葬したニュースを耳に致しました。戦争の傷跡は、今も跡が絶たない状況が続いています。


原子爆弾投下への経過(広島 & 長崎)
 1945年7月~8月初旬「模擬爆弾」に依る原爆投下訓練が行われていた。
原爆投下のための予行演習が福島市を始め、全国28カ所に合計50発余りが落とされました。 模擬爆弾は、長崎に投下されたプルトニウム爆弾と同じ形状、同じ重量に、火薬を充填したものを使用し、投下後、爆撃機が爆風を避けるため急旋回をする飛行訓練であり、7月から8月に掛けて実施されていました。
福島市では、当時14歳の少年が命を落とした。この有様を事実に基づきミュージカル化「人類の破片」が制作され、戦後60年を記して、今年初上演された報道された。

     広島原爆投下のキノコ雲

1945年8月06日:早朝、広島市へ投下。 並びに 1945年8月09日:正午、長崎市へ原子爆弾が投下された。いずれも無差別爆撃であった。神風神話にすがって戦っていた沖縄戦の敗北。同盟国ドイツの連合国軍への全面降伏。











 

     長崎原爆投下時のキノコ雲

 食べる物もない。着る物もない。住む家もない。勝つ見込みなど何処にもない中で陸軍を中心とした日本軍は、「なおも本土決戦を」:「一億玉砕を」と叫んでいた。
無条件降伏を求めた1945年7月26日、アメリカ:イギリス:中国3国による「ポツダム宣言」を黙殺した。ここから日本敗戦への秒読みが始まった。

 日本人を実験台にした原爆投下は、広島市:長崎市に決定していたわけではなく、小倉市:新潟市も候補にあがっていた。投下当日晴天の都市が選ばれる事になっていた。

しかし、他にも大きな理由があった。ソ連参戦に依って日本が降伏すれば、原爆を実戦に使用する機会がなくなる。また、アメリカの威力を世界に示す機会を失うと考えたのである。原爆は、軍事作戦を主眼に決行したわけではなかった・・・・・・。
     

当時、アメリカが保有していた原子爆弾は、広島市、長崎市へ投下した二個だけであった。この原爆による死者は、30数万人と推定されていますが、毎年増え続けています。
今もなお苦しみながら入院治療している市民が大勢います。

毎年広島市:長崎市で行われる慰霊祭に参加し、原爆博物館を見学する事をお薦めしたいと思います。

1945年8月14日:御前会議、天皇の聖断によりポツダム宣言の無条件受諾を決定。

1945年8月15日:戦争終結の詔書を放送(玉音放送)・・・・終戦。  
8月15日正午、天皇陛下のお言葉が放送された。
      「堪え難きを堪え。忍び難きを忍び。・・・・・・」。
       国民が敗戦を知った瞬間であった。大人達は、誰もが涙を流していた。

戦争は人間が犯す最大の過ちです。二度と繰り返してはならない。
                  平和の大切さを子供達に伝えて行きましょう。


焼け跡から立ち上がった国民の力強さ

 
 広島、長崎への原爆投下に依って、3年半に渡った太平洋戦争に終止符が打たれた。
GHQ最高司令官マッカーサー元帥の厚木基地への来日、天皇陛下の人間宣言。
国民は、歴史的にもない混乱と餓えの中で、闇市や買い出しを糧に懸命に生き延びようと頑張りました。

やがて、国民主権の新憲法が公布され、焼け跡の中から再生への意気込みが芽生え始めました。

参考文献==「昭和と戦争」鑑賞の手引きより。