第二次世界大戦も小学1年生2学期から激しさが増し~2年生8月終戦~食べる物もない。学用品も何もない小学時代であった。

春日台の「銚子飛行場」から出撃する零戦機

 一年生2学期から二年生1学期に掛けて、太平洋戦争は一段と激しくなり、B29に依る本土攻撃が始まった。警戒警報のサイレンと共に集団下校の繰り返しで満足な勉強も出来ない日々が続いていた。
 1945年3月9日の深夜から翌早朝に掛けて銚子の街は大空襲に遭いました。雨あられの如く焼夷弾を投下され、銚子駅前方面(西部)の街は焼け野原となった。この時、始めて戦争の恐ろしさを思い知らされました。
更に、7月19日の深夜から翌早朝、飯沼観音様方面(東部)の上空からガソリンを撒き、焼夷弾と爆弾攻撃に遭い、真っ赤に燃え上がる街々、焼け落ちる同級生の家や学校が炎にゆれている様を「げんば山の防空壕」から震えながら見ていた。
この戦災で飯沼国民学校では、教師1名:児童6名が犠牲となりました。また、この時目にした壊滅的な街々の光景を今でも忘れることが出来ません。
多くの同級生は住む家を失った。着る物もない。食べる物もない。勉強する校舎もない。
あるものは「悲しみと空腹だけだった。 焼け出された同級生達は、身寄りを尋ねて疎開する者。防空壕に身を寄せる者。遊び仲間はバラバラになってしまいました。
(終戦の年だけでも警戒警報発令376回/空襲警報発令89回と記録されています)。

 1945年8月15日の正午、とある小さな田舎町で玉音放送を聞きました。
天皇陛下のお言葉が放送されることを事前に伝えられていた。
ラジオ受信機は、戦災で数が少なく、ラジオをお持ちのご家庭の庭先にラジオを置いて、人々が土下座して聞き入っている姿を今でも忘れられません。

「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び・・・・・・・・・。」大人の皆さんは泣いていました。
戦争に負けたんだな。くやしいな。小さな胸を痛めながら誰もが感じ取ったことでしょう。

 小学校2年生は、激動の年であった。楽しい想い出は何もなく、悲しい体験だけが脳裏に焼き付いています。二度と戦争と言う悲惨な戦いをしてはいけない。
この思いを後生に伝えて行くことは我々の使命であり、責務であると言っても過言ではないと思います。 戦後の教育改革に依って銚子市立飯沼小学校と改名された。

 3年生の一学期から授業が再開されました。全校生徒は、清水小学校や明神小学校への居候教室と青空教室の二部制生活が始まりました。
教科書は、新聞紙の様なものに印刷されたままの状態で配布され、自分達で編集して使用した。青空教室での勉強。シラミ退治のDDT散布消毒で頭から背中まで真っ白になりながら遊んだこと。脱脂粉乳ミルクの給食は不味かったがお腹の足しになったこと。
こんな学校生活が3年生の3学期まで続いた。

 4年生からは、陸軍兵舎の解体廃材で突貫建設された校舎が完成し嬉しかったことを今でも鮮明に覚えています。
忘れる事の出来ない想い出は、薩摩芋入りの麦飯弁当を新聞紙で隠しながら食べていた。
そんなお粗末なお弁当さえも持って来ることが出来ず、空腹のまま相撲場の芝生で昼休み時間の終わるのを待っている同級生のことも考えずに・・・・・・・・・・。
 楽しかった想い出は、4年生の中から10名の生徒が選抜され”コーラス部(本嶋先生)”を立ち上げられた。おくれ時計;ジョンブランのおじさん;天然の美;等を練習し、学芸会にて発表した事を思い出します。
トップページのバック音楽が「おくれ時計」です。

陸軍兵舎の廃材で建設された我らが学び舎

 5年生からは、校舎再建工事(第二期)も完了し、青空教室での勉強も終わり、全校生徒が自分達の教室を持つ事が出来ました。
また、給食用の厨房室も建設され、簡単なお総菜:お味噌汁:等も出来る様になった。
この頃の一般家庭では、衣・食・住を優先させなければならない時代であり、6年生の修学旅行も参加人数の関係から実施が難しい状態にあった。
父兄会(PTA) 並びに 教職員のご努力に依って、5年生も修業旅行として「筑波山登山旅行」に参加することで、6年生の修学旅行が可能となりました。
お弁当5食分:毛布持参での旅行であった。(詳細は、想いでのアルバム・5年生修業旅行のページをご覧下さい)。

 6年生からは、男女共学が始まりました。二人掛けの机に男女が並んで座り、勉強することが実に恥ずかしかった。
中には「いじめ」を始める子もいましたが現在の様な「陰湿ないじめ」ではなかった。
また、「ほのかな思いからその子を好き(Like)になった」様な、ときめきを感じた。
修学旅行は「日光東照宮:中禅寺湖1泊2日」の旅行であった。この時は、お米持参であった。
(詳細は、想いでのアルバム・6年生修学旅行のページをご覧下さい)。
悲しかったこと。辛かったこと。苦しかったこと。等もありましたが、楽しかった沢山の想い出を胸に抱いて、たった一枚の卒業記念写真に納まりました。  

 昭和25年3月 23日、銚子市立飯沼小学校(第7回卒業生)を卒業し、共に銚子市立第三中学校に進学致した。3年後には揃って第三中学を卒業し、様々な進路に向かって銚子港から希望の船出を致しました。  
私達の年代は、誰もが戦後の日本経済発展のための戦士として参画し、夢中で働きました。
あれから53年の歳月がながれて・・・・・・・・。

この続きは、 飯沼しぶき会の生い立ち 「飯沼小学校を卒業してから53年振りの再会と感激」をご覧下さい。
                     飯沼しぶき会 (代表)         榊  健 男