飯沼小学校は、”飯沼山円福寺”の寺子屋から始まった・・・・・・。

 飯沼小学校のルーツ  昭和初期~昭和18年頃、東尋常小学校~銚子東国民学校に通学していた大先輩(3名様)から当時の様子をお話し頂き、整理したものであります。
昭和19年4月以後の状況は、私達自身が入学・通学体験した内容を整理したものであります。

明治6年7月3日飯沼山円福寺の寺子屋が開校

 飯沼山円福寺の寺子屋から、校名を「第一大学区第三〇番中学区官立小学校第四校」と称し、円福寺本堂を学舎として誕生致しました。
学区は、飯沼村と新生村で、生徒数206名/教員5名により、同年8月1日正式に開校されました。
(写真は、飯沼一部校舎)
                                                                           

 その後、明治7年に「飯沼学校」に改名、明治14年から「飯沼高等小学校」と改名されました。校舎は、円福寺境内(第2部校舎のあったところ)に建設された様です(お寺であった証拠には、昭和26年第2部校舎跡に市営プールが建設される時、沢山の埋葬樽:人骨が掘り出された事を覚えています)。(写真は、飯沼二部校舎)
 大正3年から本銚子尋常高等小学校(通称=本銚子小学校)と改称、浅間山のふもとに校舎が新築されました。
 昭和8年の市制施行によって銚子尋常高等小学校と改称され、銚子市内の小学校は、中央尋常小学校:東尋常小学校:南尋常小学校:西尋常小学校の4学区から構成されていました。
我が飯沼小学校の学区は、銚子東尋常高等小学校に属していました。 更に、学年別に校舎が4ブロックに分かれていました。第1部校舎:第2部校舎:第3部校舎:第4部校舎と言いました。
 第1部校舎(本銚子) 幼稚園:1年生
 第2部校舎(飯沼)2年生:3年生
 第3部校舎(清水)5年生:6年生:職員本部
 第4部校舎(明神)4年生  
昭和16年には、生徒数3,765名/学級数69クラス/教師79名の大規模校であった。
一学年が13組~15組あり、毎月の合同朝礼等は、第3部校舎(清水)に全生徒が集合されていた様です。
昭和16年3月1日:国民学校令が公布され、従来の尋常小学校は国民学校と改められました。
同年、国民学校令によって、銚子東国民学校と改名されました。
これによって教育に厳格な鍛錬方法が導入され、自由主義、個人主義的教育方法は極端に排除される事となった。
国民学校では、心身一体の教育が強調されて、儀式・学校行事がことさら重く見られました。

昭和18年4月1日  学制改革令によって、銚子東国民学校は、3校に分離されました。 この年の翌年3月卒業生が第1回卒業生として起算し、現在に至っています。
飯沼地区(本銚子:飯沼)/清水地区/明神地区の3校に分離され、1年生~6年生までの生徒は、集結致しました。
   銚子市立飯沼国民学校(第1部校舎:第2部校舎)
   銚子市立清水国民学校(第3部校舎)
   銚子市立明神国民学校(第4部校舎)
国民学校では、各学年ともに居住地区別にクラスが編成され、戦時態勢を意識した「集団登下校」の準備が進みました。
入学から卒業までクラス再編成はなく、隣接する町内の遊び仲間が学校でも同じクラスで勉強をしていました。空襲警報発令と同時に「クラスが3~4グループに分かれて帰宅を急いだ事を思い出します。昭和24年3月までクラス再編成はなかった。
   第1部校舎は、浅間山の麓にあった(幼稚園:1年生:2年生:3年生)  
   第2部校舎は、現在、後飯町公園(市営プール・第二保育園)の処にありました。
   (4年生:5年生:6年生:職員本部)

 昭和19年4月5日 私達は、この年の4月「桜咲く飯沼国民小学校(1部校舎)」に入学致しました。
太平洋戦争は、遠い南の国での出来事であり、日本本土への影響は全くないと思っていました。 しかし、南の国での戦況は徐々に悪化していた。
グァム島やサイパン島が玉砕し、B29爆撃機の拠点となり日本本土への直接攻撃が日増しに多くなって来ました。 学校への集団登下校が始まり、毎日の様に「警戒警報>>空襲警報が発令され勉強どころではなかった。

 何れも、昭和20年7月19日深夜~20日早朝の戦災で焼失致しました。
教育勅語を保管する「奉安殿」のみが焼け残りました。 この奉安殿は、戦後焼け野原となった飯沼観音様境内の銚港神社として姿を変え市民のお役に立ちました。

 昭和20年7月  昭和20年の7月20日の戦災で銚子の繁華街は焼け野原となりました。学校:自宅を失い、身寄りを頼って疎開する者、学童疎開に参加する者、子供たちは散り散りばらばらとなった。
 昭和21年3月から3年生の授業が始まるため、子供たちは徐々に再会致しました。再会記念として、焼け残った「奉安殿」の前で写真撮影されました。この写真は、飯沼小学校に入学し初めての記念写真です。

 昭和21年3月 「銚子市立飯沼小学校」と改称されましたが校舎は在りませんでした。清水小学校並びに明神小学校のお世話になり、共に青空教室を利用した二部交代制で勉強を致しました。

 昭和22年4月陸軍兵学校の解体廃材を利用した平屋校舎(第一期工事)が完成致しました。 自分達の校舎で、遠慮もなく、楽しく勉強をすることが出来ました(青空教室と二部交代制で勉強したことも大切な想い出となりました。

 昭和23年4月 同じ廃材を利用した二階建て校舎(第二期工事)も完成し致しました。
想い出深い「青空教室」を卒業し、全校生徒全が、自分達の教室を持つことが出来た。

平屋校舎の「3教室の仕切りを取ると大きな講堂に変身致しました。ここで「学芸会:音楽会:文化祭:入学式:卒業式」等が行われました。
また、給食のための厨房室も完成し「味噌汁:スープ等」を美味しく頂きました。

 昭和24年4月 この年から男女共学となり、小さい机で「男女二人掛け」の勉強が始まった。長く続いた「集団登下校体制」のクラス編成から男女共学に見合ったクラス再編成が実施されました。
昭和34年6月  私達の「想い出の校舎」も、廃材に依る突貫工事で建設された建物であり老朽化には勝てず。現在の鉄筋コンクリート校舎に建て替えられ、昭和34年6月16日完成致しました。想い出の校舎から引き継ぎました。
約12年間の短命でありましたが、私達の思いは150%の役目を果たしたのではないかと確信致します。

  想い出の兵学校廃材を再利用した校舎から引き継いだ現在の飯沼小学校


★★想い出の校舎跡地には、「銚子体育館」が建設されました。
また、想い出の相撲場跡地には、「銚子市立青少年文化会館」が建設され銚子市民のお役に立っています。
   以後省略致します(飯沼小学校ホームページをご参照下さい)。